梅雨空の早朝6時、大分市内のホテル前で筆者はタクシーを拾った。運転手氏に大洲総合運動場にある特攻隊出撃記念碑のことを訊くと、全く知らないとの返事。取りあえず、タクシーを走らせ大洲総合運動場へ行くことにした。車中、筆者が中津留大尉の話をしたところ、玉音放送後に特攻出撃した地元出身の海軍将校がいたことは大分では知られているとのことだった。けれども、その出撃が旧大分飛行場(戦後に大分海軍航空基地は大分飛行場となり民間空港として1971年まで利用されていた)からされていたことは初めて知ったと、運転手氏は驚いた。鹿屋か知覧など鹿児島県から出撃していたと思っていたそうだ。十分ほどで大洲総合運動場に着くと、興味がわいた運転手氏とともに運動場内の神風特別攻撃隊発進之地碑を探した。早朝マラソンに犬の散歩をする人々をよそに、記念碑はテニスコートの脇にある芝生公園にひっそりとあった。
「一六〇〇幕僚集合、別盃を待ちあり。之にて本戦藻録の頁を閉づ」
これは1945(昭和20)年8月15日に、海軍第5航空艦隊司令長官宇垣纏中将が書残した戦時日誌『戦藻録』の最後の言葉である。第5航空艦隊とは九州にあり、すでに米軍の手に落ちた沖縄への特別攻撃(特攻)作戦および本土防空戦を行う部隊で、艦隊とはいえ船のない航空部隊だった。 『戦藻録』の頁を閉じた8月15日の夕刻、宇垣は艦上爆撃機「彗星」を直率し大分基地から沖縄へ飛び立った。十死零生の特攻出撃をしたのは、正午に流れた玉音放送の後である。701航空隊大分派遣隊指揮官中津留達雄大尉率いる11機、22名の搭乗員たちがそれに従った。 この出撃は、大きな波紋を呼ぶ。
「私情で部下を道連れにして出撃するとはもってのほか。自決をするなら一人でしろ」
宇垣が指揮する最後の特攻が行われた際、その報を耳にした小澤治三郎海軍総隊兼連合艦隊司令長官は激怒したという。
だが、即時戦闘行動停止の命令が第5航空艦隊司令部へ来たのは、8月16日の午後4時だった。8月14日に、第5航空艦隊は対ソおよび対沖縄積極攻撃中止の命令を受けていたが、それは戦闘行動そのものの停止命令ではない。また、8月15日の正午に流れた玉音放送も法的には停戦命令にはならない。大元帥ではあるものの、これは天皇個人の呼びかけにすぎなかった。
結局海軍は宇垣中将以下計17名を抗命(命令不服従)とはできず、また占領軍への配慮からも特攻戦死ともできず、通常の戦死者として扱った。
特攻で戦死した場合は、連合艦隊司令長官から布告、二階級特進することが通例となっている。けれども、中津留大尉以下戦死した16名は一階級進級しただけで、宇垣中将においてはただの戦死とされ海軍大将宇垣纏は誕生しなかった。
「命令では5機のはずであったが」
最後の特攻攻撃が行われようとした際、飛行場に並んだ「彗星」を見た宇垣は驚いた。
「長官が特攻をかけられるというのに、たったの5機とは何事でありますかっ。私の隊は全機でお供いたします」
と中津留は怒鳴った。結局、宇垣は11機での出撃を許可する。
宇垣特攻に随伴した隊員たちの心情は如何ばかりであったのだろうか。「死に急ぎはしない」と一人息子の海軍入隊に心配する父に約束した中津留には、7月に生まれたばかりの一人娘の鈴子がいた。7月28日、大尉は鈴子と最初で最後の対面を果たしている。中津留の父は戦後に語った。
「戦後ずうっと永い間、わたしゃ宇垣さんを怨み続けてきました。どうして自分一人でピストルで自決せんじゃったんじゃろうか、戦争は済んだというのに…」
8月15日、大分基地から飛び立った11機の「彗星」は、2機が整備不良のため、1機は敵艦を発見できずに不時着した。残りの機は、米軍の水上部隊に突入したり、伊平屋島の米軍キャンプ付近に墜落したりと様々な最期が語られ、真相はわからない。どうやら、最後の特攻隊は米軍に損害を与えることなく南海へ散ったことは間違いない。結果的にそうなったのか、彼らが自らの意思で米軍への攻撃を躊躇したのかは誰もわからない。
「一度、爆弾を落としてから再度、敵艦に体当たりせよ」
最後の特攻出撃をする際に中津留は部下に命じた。彼は腕の良いベテラン搭乗員で、宇佐航空隊や美保航空隊で教官を務めていた。しかし戦局は逼迫し、急降下爆撃の名手であった中津留は教え子たちに外道の体当たり攻撃を教えねばならなかった。「無駄死にはしない」が心情だった彼は、特攻要員たちに戦技訓練をさせる。これは敵戦闘機から逃れ攻撃目標に突入し確実に戦果をあげるためだった。そのような合理的な中津留が宇垣特攻に選ばれた。そのため、中津留隊は玉音放送を聴くことなく無理やり特攻に行かされたという説があるが、それは今となっては詮ない話だろう。たとえ放送を聴いていたとしても結果は同じような気がする。既に日本は8月10日に連合国へポツダム宣言の受諾を条件つきで伝え、12日には連合国から回答、そして14日に天皇は終戦の詔書へ署名し連合国へ最終回答をしている。米軍は13日には日本降伏のビラを内地にまきつつ、勝利を見せつけるかのように14日から15日へかけ大規模な本土爆撃をしている。この間の動きを、最前線部隊にいる幹部の中津留大尉が知らないはずはないだろう。搭乗員仲間の多くは南海に散ったにもかかわらず祖国は滅亡の際に追い詰められようとしている。その時、司令長官自らが特攻をかけることになった。当然命令に従うという姿勢で中津留隊は出撃したに違いない。
特攻戦死した西田高光中尉が残した言葉がある。
「この戦争について疑問を持っている者もいるし、私もそうですが、そう単純に日本が連合軍という大敵に勝てるなどとは思っていません。でも無条件降伏は、ありえないとは思っている。ですから、少なくとも今の戦局を小康状態にまで盛り返して、有利な講和に持ち込む。それしかないんじゃないかなあ。われわれはそのために敵艦に突っ込むんですよ…」
戦勝国アメリカは二度と日本が特攻攻撃をしないように、平和憲法を与え武装を解いた。戦後日本の歩みを顧みると、西田中尉が想像した以上の有利な講和を手に入れたと思う。
神風特別攻撃隊発進之地碑の前で佇むこと10分。いみじくも運転手氏が言った。
「この大分から最後の特攻をした人たちの気持ちは今となってはわからないけど、みんな二十歳そこそこだから、きっと純真な気持ちだったのだろうね。特攻は無駄死にだの、戦争が終わったのに死んでしまってバカだの、今からみればそうかもしれないけど、その当時の人たちの気持ちを理解してあげることが大切なことだと思いますね」
全く同感である。宇垣中将以下18名に合掌しつつ筆をおく。
神風特別攻撃隊発進之地碑には次の通り文字が刻まれている。
昭和二十年八月十五日午後四時三十分 太平洋戦争最後の特別攻撃隊は この地より出撃せり
その時 沖縄の米艦艇に突入戦死せし者の氏名左の如し
宇垣纏(五五・岡山) 中津留達雄(二三・大分) 遠藤秋章(二二・愛媛) 伊東幸彦(二〇・宮城) 大木正夫(二一・福島) 山川代夫(二一・山形) 北見武雄(二〇・新潟) 池田武徳(二二・福岡) 山田勇夫(二〇・千葉) 渡辺操(二二・千葉) 内海進(二一・岩手) 後藤高男(二四・福岡) 磯村堅(二二・山口) 松永茂男(二〇・福岡) 中島英雄(一九・愛知) 藤崎孝良(一九・鹿児島) 吉田利(二〇・滋賀) 日高保(二〇・鹿児島)
旧制大分中学五十八期会一同
同五十七 五十九期有志一同
旧海軍有志一同
昭和五十一年八月建之
平成六年十二月改修之
訪問日:2007/5/29
